小型カメラかラジオを持って各駅をぐるっと回って、ホテルまで戻ってこい」と言う。これは何かのテストだと私は思った。地下鉄に乗って、各駅を見て回って、そのあと無事にホテルまで戻ってこられたら、モスクワ大学に渡りをつけてやるとまではいわなくても、語学学校か何かを紹介してくれるつもりなんだろうと勝手に解釈した。五月のモスクワは、雪こそ降っていなかったけれど、かなり冷え込んでいた。恐る恐るも勢い込んで地下鉄の駅にたどり着き、あたりを見渡すと、そこは宮殿のように立派な施設だった。コンコースは大理石でできていて、大きなシャンデリアが天井から下がっている。私は、「社会主義の国はさすがだな」などと感激し、浮き足立った気持ちでいた。しばらく観察してから、トイレに行った.そこで見た光景のなんと壮絶だったことか.lまず、目に入ったのが、むき出しになった大便器の行列だ。というのも、当然あったはずの個室の囲い壁が、半分以上ないのである。以前、そこに壁があったであろうことは、床に残ったボルトの穴でわかる。取恥の跡でわかる。取り外しやすいドアは、もう一枚も残っていない。ドアがあったことは、残された蝶番。さらに私を驚かせたのが、大便器のうえに、山と残された大量の人糞だ。ようするに、流れていないのだ。モスクワの寒さのせいか、あんまりビックリして喚覚が麻庫していたのか、臭いの記憶はない。
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